第三回読書会議事録【建築の多様性と対立性:R・ヴェンチューリ著】

2009/09/21第三回読書会のレポ出します。
参加者:赤崎、片山、鈴木、藤井、三上
【話を進めるにあたってのとりあえずのワード共有】
議論を進めるにあたってまず多様性と対立性の意味を共有した。
多様性:グレーゾーンの許容であり、意味の数を増やす。建築概念・表現の幅を担保する
対立性:多様性をつなぎ止める緊張関係。多様性=なんでもありとしないためのアンカー
今回は各章毎に疑問点、確認点をネタに議論を展開していった。したがって議事録も各章毎にまとめる。(中には章を横断する話もある)
【第一章:ひとひねりした建築】
本書のプロローグであるとともにエピローグでもある。一章でワードを並べ二章以降でそのワードを展開している事を確認する程度に留まる。
【第二章:多様性と対立性vs単純化または絵画風】
モダニズムの単純化、絵画風を狙った構成を批判し、その反証として多様性と対立性のある建築がある事を表明する章。単純化、絵画風とは建築の一部分を誇大化し、対として一部を縮小化している。無批判なless is moreへの傾倒をless is boreとし、第三章からの多様性と対立性の説明へと繋がる事を確認。
【第三章:曖昧さ、第四章:対立性の諸相】
三章で"or-それとも"、四章で"both and-にもかかわらず"というある建築要素を接続する二つのワードが登場する。ここでは両者を使い分ける理由、両者の違いを中心に議論がなされた。
まず視点の違いなのではという話が出る。"or"は実際の建物を見た時の視点。"both and"は図面上など俯瞰的な視点。しかしこれは本書の例で"or"でも"both and"でも両方の例が出るため一概には言えないと指摘される。
また、"both and"は対立性を明確にしているという意見も出た。一つの事に複数の見方が共存している=多重性、共存
一方"or"は同時にある必要がない。Aに見えるがBにも見える=多角性、曖昧
と、両者は言い表せるのではないかという位置づけ。
このことから同時に存在している事が宣言される"both and"の方が各要素の対立性の話が強いのではないかという分析に至る。ともすれば設計の段階で設計者はグレーゾーンの対立性を意識して設計するであろうから、設計者は"both and"の視点によっているのではないか。これが前述の"both and"が俯瞰的視点に思えた理由なのではないかと分析された。
いずれにしても"or"と"both and"は似て非なるものである事が分かる。
【第五章:続・対立性の諸相】
多重性を機能と意味とで異なるものと明記された上で論は引き続き多重性について展開していく。モダニズムで欠落した修辞的要素についての指摘は非常にクリアである。
論の本筋ではないが、ここではフレキシビリティについて話した。
空間のフレキシビリティには『実体的フレキシビリティ』と『感覚的フレキシビリティ』の二つがあると。
実体的フレキシビリティとはミースのユニバーサルスペースのようにまるっきり自由に使えそうな空間をもつ建築の柔軟性、感覚的フレキシビリティは本書ではカーンのメジャースペースとサーヴァントスペースを例に挙げ、構成の選択可能なことによる建築の柔軟性を指している。
妹島和世さんが新しいフレキシビリティの概念として均質空間を分割して自由に選択する事でフレキシビリティを獲得させているが、そのフレキシビリティはヴェンチューリによっても指摘されている事が分かる。ここまで読み進めていき、如何に本書が現代における建築論の土台として決定的な存在であるかを認識した。
【第六章:つじつま合わせ、ならびに秩序の限界】
対立性が表れる事で建築全体に不整合が生じる(という風に一応ことわっておく)と、それまでの秩序を逸脱する。ヴェンチューリはこの秩序の崩壊と再構築を容認すべきだと主張する。
曖昧さを容認すれば一貫性にズレが生じるのは当たり前である。そこで全体性を持たせる操作が必要となるがこれは10章でまとめられている。
秩序を部分的で崩すことでそれを強調する。ヴェンチューリは秩序を崩していい場合もあると控えめに述べながら、実は論としては秩序を崩す事をかなりプッシュしている。いかに当時の建築家達が秩序だった建築に傾倒していたかがうかがえる。
ヴェンチューリの論はある秩序を守った状態=慣習を無批判に使い続けている事への批判であると認識する。慣習を乗り越えて曖昧な部分へと踏み込む、そこで多様さが生まれ、さらに曖昧さを乗り越えて表現するところまで至るべきであると。
【第七章:調整された対立性】
調整された対立性と並置された対立性の二種類の対立性について言及。対立性を処理するかしないかの違い。いずれにせよ一貫性という面からは矛盾が生じており、故にグレーゾーンを扱う事を許容するべきということになる。第10章に大きく繋がる。
個々が不統合でも全体として統合されるという主張。例としてタイムススクウェアが使われている。乱雑な看板群も全体としては場所固有の活気を生み出していて統一感がある。
しかし、後にこのような看板群はそれ自体が慣習化しそっくり別の都市に用いられ、味気のない無個性な街を量産した。これは慣習をそのまま用いたためであり、その場所固有のコンテクストを読み取っていない為であると考えた。
コールハースジェネリックシティに繋がると認識。
東京はそんな慣習をコピーした街の一つに過ぎなかったはずだが、元々の街区の乱雑さ、一極集中のシステムなど場所固有のコードを混ぜ合わせ唯一無二の混沌都市としてオーバードライブするに至っている。
そんな東京の慣習が無批判に地方にコピーされるという新しい問題。例えば都市計画もアカデミックに系統づけてもそっくりそれを使う事には限界がありそう。
とすればそれはツリー構造の限界という現代の批判にもリンクする。で、セミラティス構造か…?
【第八章:並置された対立性】
並置された対立性における対立的関係の一つのパターン『脈絡なしの隣接』を中心に話が進む。
脈絡なしの隣接が排他的ではなく、包括的であるのはグレーゾーンを許容するからであり、それぞれの重なり合わせを濃密なものとして許容する為だと言える。ヴェンチューリ自身も脈絡なしの隣接にこそ建築の豊かさがあると述べている。
脈絡なしの隣接はスケールや形だけの問題ではなくディテールにも当てはめられ、スケールの全く異なるものでも当てはめられると認識。
【第九章:内部と外部】
八章の発展的章。内部と外部の不一致とその間に生まれるうちと外の間の部分=矛盾をどう扱うか。
そもそも一つの外部に百の内部が一致すればそれは多様である。逆もまたしかり。
しかしそのままでは乱雑なだけ。そこを建築として扱う面白さは内部と外部の連続部分つまり矛盾している部分をいかに扱うかという事でヴェンチューリの関心もそこにあるようだ。
内部と外部の境界。そこをデッドスペースにせずいかに扱いきるかが大事。故にカーンのサーヴァントスペース(=残余)をヴェンチューリは評価している。
前回の読書会で青木淳氏も同じ指摘と関心を示していた事が指摘される。このように現代の建築家もこの内部と外部の間の残余をどう扱うかについて言及している。
藤本壮介氏はこれを溶かして、内部と外部を曖昧に連続させる試みをしている。中山英之氏は内部と外部を境界の装置によってこれらを自由に反転させる作品を作っている。
ヴェンチューリの論は継続されている。
【第10章:複雑な全体を獲得する責務】
ヴェンチューリは全体性を獲得する責務があると表明し、それは単純化する事でクリアに示すのではなく複雑な要素の統合によって獲得すべきだと主張している。その方法が『インフレクション(屈曲)』である。今までの論で矛盾をどう扱うか疑問を残していたが、ここで論が収束する。
ヴェンチューリは屈曲によって一貫しないものを統合させた。住宅課題の時の中心性、非中心性の話もこの統合の一手段だという指摘。線形要素を並べただけではまとまりがないので、そこに統一方法を用いる事で建築としての全体性を獲得させようというわけだ。
ヴェンチューリ(あるいは住宅設計)を踏まえて建築の全体性、多様性、対立性、濃度などをどう扱うかが各人これから考える大きな要素である事を確認。
【編集後記】
こうやって議論を辿ると時間の割に話し合われたトピックが少ない事に気づく。それは最初のうちはワードやヴェンチューリの論など共通認識してそこから各意見に進む為前半の章で時間をかけているのが原因。でもこれは悪い事ではない。知らないのだからその為の読書会。
ある程度共有する部分を得ると議論はスムーズに走り出す。前回までの読書会のネタをリンクさせる場面も増えてきて、共通認識、または単純に知識の重要性を改めて実感。
課題は共通認識を持ってからの議論の展開が弱い事。共有できた部分が多いならよりそれを展開する。引っかかる部分があるならそこを話し合う。特に前回までの話が経験してないメンバーが多くなればそれだけ大事な行程だ。
今回は初参加者も積極的に発言してくれてとてもありがたかったです。もう少し議論の中でこちらから補足をすれば良かったなと反省です。